映画館を出たあと、何を観たのかよくわからず、ただ疲労感だけが残った経験はありませんか。2024年2月に日本公開された『ボーはおそれている』は、まさにそんな反応を多くの観客から引き出した作品です。
そこで今回は、この難解な映画の魅力を丁寧に解きほぐしていきます。「意味不明」と感じたあなたの反応は正常で、むしろそれこそが監督の意図だったかもしれないという視点から、この奇妙な旅路の意味を一緒に考えていきましょう。
『ボーはおそれている』の基本情報と物語の概要
- アリ・アスター監督による3時間の挑戦作
- ホアキン・フェニックスが演じる不安な主人公ボー
- 帰省という単純な旅が壮大なオデッセイへ
アリ・アスター監督による3時間の挑戦作
『ボーはおそれている』は、ホラー映画界の鬼才として知られるアリ・アスター監督が2023年に発表した作品です。監督自身が「非公式三部作」と呼ぶシリーズの完結編となっており、前作『ヘレディタリー/継承』や『ミッドサマー』に続く問題作として注目を集めました。
上映時間は約3時間という長尺で、観客の体力と精神力を試すかのような構成になっています。批評家からの評価は賛否両論で、内容を詰め込みすぎだという声がある一方で、確かな力を持った作品だと絶賛する意見もありました。
興味深いのは、この映画が商業的には失敗したにもかかわらず、多くの著名な映画監督や俳優から絶賛されている点です。ポン・ジュノ監督は強い衝撃を受けた作品として高く評価し、エマ・ストーンも傑作だと絶賛しており、映画作家たちの心に深く刺さる何かがあることは間違いありません。
ホアキン・フェニックスが演じる不安な主人公ボー
主人公のボー・ワッサーマンを演じるのは、『ジョーカー』で知られるホアキン・フェニックスです。ボーは極度の不安症を抱える中年男性で、日常の些細なことにも恐怖を感じながら生きています。
彼は著名な実業家である母モナとの複雑な関係に苦しみ、父は自分が生まれた夜に亡くなったと聞かされてきました。物語は、その父の命日に母を訪ねようとするボーが、次々と予想外の出来事に巻き込まれていく様子を描いています。
フェニックスの演技は圧倒的で、常に何かにおびえているボーの姿を繊細に表現しています。この役柄は監督のアリ・アスター自身の分身でもあり、監督が抱える不安や恐怖といった感情がボーというキャラクターを通して具現化されているのです。
帰省という単純な旅が壮大なオデッセイへ
物語の筋書きは一見シンプルで、母に会いに行くという単純な帰省の旅です。しかし、ボーがアパートの玄関を出た瞬間から、現実は歪み始め、悪夢のような出来事が次々と襲いかかります。
鍵と荷物を盗まれ、飛行機に乗り遅れたボーは、母の訃報を聞くことになります。母の元へ向かおうとする彼の前に立ちはだかるのは、暴力的な街、奇妙な家族、森の中の劇団、そして衝撃的な真実です。
この旅は、文学における「ゆきて帰りし物語」の構造を持っており、監督も『指輪物語』との関連を示唆しています。ただし、通常の冒険物語と異なるのは、ボーの旅が故郷という安全地帯に戻るはずが、実は最も恐ろしい場所へと向かう旅だったという皮肉な結末を迎える点です。
意味不明と感じる理由と映画の構造
- 現実と妄想が入り混じる5部構成
- 過剰な情報量と視覚的衝撃の意図
- 観客を疲れさせる演出の狙い
現実と妄想が入り混じる5部構成
この映画が理解しにくい最大の理由は、現実と妄想の境界が極めて曖昧に描かれている点にあります。作品は5つの部分に分かれており、各部でトーンや雰囲気が劇的に変化するため、観客は常に混乱状態に置かれます。
第1部は暴力とカオスに満ちた都市での出来事、第2部は郊外の家庭で過ごす日々、第3部は森の中での劇団との遭遇、第4部は母の屋敷での真実の発覚、そして第5部は水上の法廷での裁きです。それぞれが異なる映画のように感じられ、統一感のなさが観客を戸惑わせます。
しかし、この構造こそがボーの心理状態を表現する手法なのです。不安症のボーにとって、世界そのものが予測不可能で一貫性のない恐ろしい場所であり、観客が感じる混乱は、ボーが日々感じている恐怖の疑似体験なのだと考えることができます。
過剰な情報量と視覚的衝撃の意図
映画全体に散りばめられた膨大な情報と伏線も、観客を圧倒する要因となっています。冒頭に映し出されるロゴの中には、母モナが経営する架空企業のものが含まれており、初見では絶対に気づけない仕掛けが随所に施されています。
アリ・アスター監督は、このような過剰な演出を意図的に用いることで、表面的なストーリーの下に隠された深い層を作り出しています。巨大な男性器の形をした怪物や、屋根裏部屋に閉じ込められた双子など、衝撃的なビジュアルは、ボーの抑圧された感情やトラウマを象徴的に表現しているのです。
監督は、この過剰さによって観客の目から「本質」を隠そうとしているのかもしれません。派手な演出の奥にあるのは、実はとてもシンプルな感情で、それは「ボーはおそれている」というタイトルが示す通り、主人公が抱える根源的な不安と空虚さなのです。
観客を疲れさせる演出の狙い
3時間という長尺と、休む間もなく続く不条理な展開は、多くの観客を疲弊させました。実際、劇場では途中退席する人も少なくなく、配信で観た人の中には再生を途中で止めた人もいたでしょう。
しかし、この疲労感こそが作品の重要な要素だと考えられます。観客が感じる疲れは、ボー自身が母親との関係や人生そのものに対して感じている疲弊と重なり、観る側は彼の苦しみを身体的に共有することになるのです。
さらに興味深いのは、ラストシーンでボートが転覆し、映画館の観客たちが席を立って去っていく様子が、劇中の観衆が法廷を去る様子と重なる点です。これは、観客もまたボーを裁く側の存在であり、彼の苦しみを消費して立ち去る傍観者に過ぎないという、監督からの痛烈なメッセージなのかもしれません。
この映画が伝えたかったメッセージ
- 母性の支配と毒親問題の描写
- 不条理な世界に生きる人間の姿
- ラストシーンに込められた皮肉
母性の支配と毒親問題の描写
この映画の中核にあるテーマは、母親による息子への過度な支配と、いわゆる「毒親問題」です。モナは表面的には息子を愛する立派な母親のように見えますが、実際はボーの人生を完全にコントロールしようとする恐ろしい存在として描かれています。
彼女はボーの生活を常に監視し、セラピーでの会話も盗聴し、初恋の相手エレインまでも従業員として「所有」していました。さらに、自分の死を偽装してまでボーを実家に呼び寄せようとする執念は、愛情という名の支配欲の暴走を示しています。
興味深いのは、最終的に裁かれるべきは母親のはずなのに、審判を受けるのはボーである点です。これは、毒親問題における子どもの立場を象徴的に表しており、どれほど理不尽でも親に逆らえない子どもの無力さと、罪悪感を植え付けられ続ける苦しみを描いているのです。
不条理な世界に生きる人間の姿
ボーが直面する数々の困難は、日常で経験する不条理の極端な表現だと捉えることができます。鍵を盗まれる、飛行機に乗り遅れる、誤解される、助けを求めても信じてもらえないといった出来事は、誰もが経験しうる理不尽さです。
アリ・アスター監督は、自身の作品について、困難な状況にあるときほど良い作品が生まれると語っており、この映画も監督自身の不安や恐怖から生まれています。子どもは親を選べないという根本的な不条理から始まり、ボーの人生は最初から最後まで彼の意志とは無関係に展開していくのです。
ボーが常に受動的で、自分の人生をコントロールできない姿は、現代社会を生きる多くの人々の心情と重なります。この映画は、理不尽な世界で翻弄されながらも生きざるを得ない人間の姿を、極端なまでに増幅して見せることで、観る側に何かを問いかけているのかもしれません。
ラストシーンに込められた皮肉
物語の結末は、ボーがボートごと水中に沈んで溺死するという衝撃的なものです。これは文字通りには母親の胎内、すなわち羊水の中へと戻っていく様子を表現しており、母親にとっては究極の至福を意味します。
興味深いのは、監督がこのラストを「ハッピーエンド」として意図している点です。『ミッドサマー』の主人公ダニーが最後に見せた笑顔と同様に、モナにとってはボーが永遠に自分の元に戻ってきたことになり、これ以上の幸福はないのです。
しかし、観客の多くはこの結末を救いのない悲劇として受け取るでしょう。この認識のずれこそが、監督が描きたかった独特の満足感であり、一見ハッピーエンドに見える結末が実は恐ろしいものだという違和感を、観た人に持ち帰らせる仕掛けなのです。
『ボーはおそれている』についてのまとめ
ここまで、難解と評される『ボーはおそれている』の構造と意味を解説してきました。この映画が「意味不明」と感じられるのは、監督の意図的な演出によるものであり、あなたの理解力の問題ではありません。
この記事の要点を復習しましょう。
- アリ・アスター監督による「非公式三部作」の完結編で、約3時間の挑戦的な作品
- 主人公ボーの帰省の旅が、現実と妄想が入り混じる悪夢のようなオデッセイへと変貌する
- 5部構成の複雑な物語は、不安症のボーが感じる世界の混乱を観客に疑似体験させる
- 過剰な情報量と視覚的衝撃は、本質を隠すと同時に、ボーの心理状態を表現する
- 中核のテーマは母性の支配と毒親問題で、現代社会の不条理を極端に描いている
- ラストシーンは監督にとってのハッピーエンドだが、観客には違和感を残す独特の満足感となっている
この映画は、観る人を選び、簡単には理解させてくれない作品です。しかし、だからこそ、一度観ただけでは気づけない発見があり、繰り返し考察する楽しみがあり、映画というメディアの可能性を広げる試みとして、観る価値のある作品だと言えるでしょう。
