映画『死刑にいたる病』をご覧になって、原作小説も気になっているあなた。あるいは原作を読んでから映画を観て、その違いに驚いた方もいらっしゃるかもしれません。
そこで今回は、白石和彌監督が手がけた映画版と櫛木理宇の原作小説との間に存在する重要な相違点について、制作意図や表現効果の観点から深く掘り下げていきます。両作品を比較することで見えてくる、それぞれのメディアならではの魅力を一緒に探っていきましょう。
キャラクター設定における大胆な変更
- 榛村の外見設定が真逆になった理由
- 灯里の役割が劇的に拡大された意図
- 弁護士の立ち位置が変化した背景
榛村の外見設定が真逆になった理由
原作における榛村大和は、誰もが振り向くような超絶的なイケメンとして描かれています。この美しい外見こそが、被害者たちを油断させ、周囲の人々が彼の犯行を疑わなかった最大の理由でした。
ところが映画版では、阿部サダヲがこの役を演じることで、全く異なるアプローチが取られています。決してイケメン枠ではない阿部サダヲの起用は、一見すると原作の設定を覆す大胆な変更に思えるでしょう。
しかしこの変更には深い意図があります。阿部サダヲの持つ独特の存在感と演技力によって、外見の美しさではなく人当たりの良さや言葉巧みな洗脳技術そのものに焦点を当てることができ、榛村というキャラクターの本質的な恐ろしさをより鮮明に浮かび上がらせることに成功しているのです。
灯里の役割が劇的に拡大された意図
原作において加納灯里は、榛村から手紙を受け取った複数の人物の一人として軽く触れられる程度の、いわば空気のような存在でした。彼女が雅也にアプローチする方法を榛村に相談していたという設定はあるものの、物語の核心には関わってきません。
対して映画版では、灯里が物語の最後に決定的な役割を担います。雅也が榛村の呪縛から逃れて新しい人生を始めようとした矢先、灯里もまた榛村に深く洗脳されていたことが明らかになり、「爪剝がしたい?」という衝撃的な台詞で映画は幕を閉じるのです。
この変更は、榛村の「病」が伝染病のように広がり続けるという恐怖を強調する効果があります。榛村が死刑になった後も彼の影響は消えず、むしろ身近な人物を通じて生き続けるという絶望的な結末は、映画ならではの余韻を残す演出として高く評価できます。
弁護士の立ち位置が変化した背景
佐村弁護士の描かれ方も、原作と映画では大きく異なっています。原作では弁護士が榛村に洗脳されており、彼の手足となって動いていることが比較的早い段階で示唆されます。
映画版ではこの設定が変更され、弁護士の役割や榛村との関係性が異なる形で描写されています。この変更により、誰が榛村の影響下にあるのかという疑念が観客の中で膨らみ、サスペンス要素がより高まる構造になっています。
登場人物それぞれの立ち位置を調整することで、映画は独自のミステリー性を獲得しています。原作を読んだ人でも先が読めない展開を作り出すことに成功しており、両方を楽しむ価値を生み出している点は見事です。
物語の描写方法における違い
- 榛村の過去が詳細に語られるか否か
- 被害者との接触過程の描き方
- 面会シーンの表現技法の差異
榛村の過去が詳細に語られるか否か
原作では榛村の生い立ちや彼が殺人鬼になった経緯が、かなり詳しく描かれています。幼少期の虐待体験や母親との複雑な関係、彼の内面に潜む闇の形成過程を読者は知ることができます。
この詳細な背景描写によって、読者は榛村という人物をより深く理解し、ある種の共感さえ抱いてしまう危険性があります。それこそが原作の狙いであり、雅也が榛村に惹かれていく心理を読者自身も追体験できる仕掛けになっているのです。
一方で映画版は、榛村の背景をあえて謎のままにしています。彼の過去が明かされないことで、榛村は得体の知れない存在として観客の前に立ち続け、その不気味さと恐怖がより際立つ効果を生んでいます。
被害者との接触過程の描き方
映画版では、榛村が被害者たちと接触し、徐々に親密になっていく過程が丁寧に映像化されています。パン屋の優しい店主として振る舞い、少年少女たちの心を開いていく様子が具体的に描かれます。
原作でもこうした過程は言葉で説明されていますが、映画の映像表現はより直接的に観客の感情に訴えかけてきます。阿部サダヲの演技によって、表面的な優しさの裏に潜む異常性が巧みに表現され、言葉では伝えきれない微妙なニュアンスが視覚化されています。
さらに映画では、面会の監視を担当する職員までもが榛村の影響を受けている場面が加えられています。この追加要素は、榛村の影響力がいかに強大で恐ろしいものであるかを強調し、彼の超人的な洗脳能力を視覚的に証明する効果的な演出となっています。
面会シーンの表現技法の差異
映画における面会シーンでは、アクリル板への映り込みという映像ならではの技法が巧みに使われています。雅也を正面から撮影したカットでは、アクリル板に映った榛村の姿が二重に見え、視覚的に両者の心理的距離が縮まっていく様子が表現されています。
物理的には隔てられているはずの二人が、まるで触れ合っているかのような映像表現も印象的です。これは実際には起こり得ないことですが、雅也の心が榛村に侵食されていく過程を象徴的に描いており、小説では表現しづらい心理状態を視覚化することに成功しています。
原作では雅也の内面の変化が彼自身の一人称的な語りで詳細に描写されますが、映画は映像と演技によってそれを表現しています。限られた空間である面会室を最大限に活用し、閉塞感と緊張感を醸し出す映像作りは、白石和彌監督の手腕が光る部分です。
結末の衝撃度とメッセージ性
- 原作が提示する絶望の形
- 映画が追加した新たな恐怖
- 作品タイトルの意味の深化
原作が提示する絶望の形
原作のラストは、雅也が榛村の本質を理解しながらも完全には逃れられない状況で終わります。榛村が死刑になっても、彼から手紙を受け取った多くの若者たちが世の中に存在し続けるという事実が、静かな恐怖として読者の心に残ります。
この結末は、キルケゴールの『死に至る病』が示す「絶望」の概念と深く結びついています。本来の自分を見失い、他者に依存することで生まれる精神の死という哲学的テーマが、物語全体を通して表現されているのです。
櫛木理宇は原作の冒頭で、キルケゴールの言葉と寺山修司の戯曲『疫病流行記』からの引用を配置しています。これらの引用が示唆するように、榛村という「病」は一人の人間の問題ではなく、社会全体に広がりうる伝染病のような存在として描かれており、その普遍性が作品に深みを与えています。
映画が追加した新たな恐怖
映画版は原作の哲学的なテーマを継承しながらも、より直接的で衝撃的な恐怖を追加しています。灯里が榛村に洗脳されていたという衝撃の事実は、雅也にとって最も身近で信頼できる存在さえも実は敵だったという絶望を突きつけます。
この変更によって、榛村の影響力の恐ろしさがより具体的に、そして個人的なレベルで観客に迫ってきます。恋人として寄り添っていた相手が、実は自分を榛村の世界に引きずり込むための駒だったという事実は、人間関係そのものへの不信感を植え付ける強烈な演出です。
映画のラストシーンで灯里が発する「爪剝がしたい?」という言葉は、観客の記憶に深く刻まれます。この一言によって、榛村の死後も彼の「病」は確実に広がり続けており、もはや誰も安全ではないという絶望的な真実が突きつけられ、映画館を後にする観客に強烈な余韻を残すのです。
作品タイトルの意味の深化
タイトルである『死刑にいたる病』は、キルケゴールの『死に至る病』をもじったものです。原作では、この「病」が絶望という精神状態であり、同時に榛村の持つ殺人衝動そのものを指していることが丁寧に説明されています。
榛村は本来の自分を取り戻すために殺人を犯し続け、その結果として死刑という結末に至ります。つまり彼にとって「死刑にいたる病」とは、自己実現の過程そのものであり、それが文字通り死刑という終着点に向かっていくという皮肉な構造になっています。
映画版では、この「病」の伝染性がより強調されています。榛村個人の病であったものが、雅也や灯里、そして他の多くの若者たちに感染していく様子を描くことで、タイトルの持つ意味がさらに重層的になり、社会への警鐘というメッセージ性も加わっているのです。
『死刑にいたる病』についてのまとめ
映画『死刑にいたる病』は、原作の核心的なテーマを大切にしながらも、映像メディアならではの表現方法を追求した意欲作です。キャスティングの変更から結末の追加まで、一つ一つの脚色に明確な意図があり、両作品はそれぞれ独立した価値を持っています。
この記事の要点を復習しましょう。
- 榛村の外見設定を変更することで、洗脳技術そのものの恐ろしさに焦点を当てた
- 灯里の役割を拡大し、「病」の伝染という恐怖をより具体的に描いた
- 弁護士など登場人物の立ち位置を調整し、独自のミステリー性を獲得した
- 榛村の過去を謎のままにすることで、不気味さと恐怖を際立たせた
- 映像表現を駆使して、心理的な変化を視覚的に表現した
- 衝撃的なラストを追加することで、作品テーマをより強烈に印象付けた
原作を読んだ後に映画を観る、あるいはその逆の順序で楽しむことで、この作品の多層的な魅力をより深く味わえます。両方に触れることで初めて見えてくる制作陣の工夫や意図を発見する喜びを、ぜひあなたも体験してみてください。
