「激闘王」の異名で知られる八重樫東選手をご存じでしょうか。世界戦のたびに顔を腫らしながらも決して引かない姿勢が、多くのファンの心を捉えてきました。
そこで今回は、3階級制覇を成し遂げた八重樫東氏の年収や戦績、そして現在のトレーナーとしての活動について詳しく解説します。この記事を読めば、彼のボクシング人生の軌跡と、引退後の新たな挑戦について深く理解できるはずです。
八重樫東の現役時代の年収とファイトマネー事情
- ボクサーの収入システムと八重樫東のポジション
- 世界王者としてのファイトマネーの実態
- 年収を支えた副収入とスポンサー契約
ボクサーの収入システムと八重樫東のポジション
プロボクサーの収入は、一般的なサラリーマンとは根本的に異なる構造を持っています。基本給がなく、試合ごとに支払われるファイトマネーが主な収入源となるため、試合数が年収を大きく左右するのです。
新人のC級ライセンス選手は1試合あたり6万円程度ですが、世界王者クラスになると状況は一変します。八重樫東氏のような3階級制覇王者であれば、1試合で1000万円を超えるファイトマネーを得ることが可能だったと考えられます。
ただし、この金額から所属ジムが33%を徴収するのが一般的なルールです。つまり、表面上のファイトマネーが3000万円でも、実際に選手の手元に残るのは約2000万円程度になる計算になります。
世界王者としてのファイトマネーの実態
世界タイトルマッチのファイトマネーは、試合の注目度やテレビの視聴率によって大きく変動します。特に地上波のゴールデンタイムで放送される試合では、放送権料の上昇に伴ってファイトマネーも跳ね上がる傾向があります。
八重樫東氏の場合、WBA世界ミニマム級王座獲得後の防衛戦では、1試合あたり相当な額を得ていたはずです。仮に年間3〜4試合を行い、1試合あたり1500万円から3000万円のファイトマネーだとすれば、年収は4500万円から1億円以上に達していた可能性があります。
しかし、軽量級は重量級と比較してファイトマネーが低い傾向にあることは否めません。それでも八重樫氏は「激闘王」として知名度が高く、試合のたびに高視聴率を記録していたため、同階級の中では恵まれた待遇を受けていたと推測できます。
年収を支えた副収入とスポンサー契約
ボクサーの収入はファイトマネーだけではなく、テレビ出演料やイベント出演料も重要な収入源となります。八重樫東氏は現役時代、バラエティ番組への出演やスポーツ番組でのインタビューなど、メディア露出の機会に恵まれていました。
さらに2016年からはプラチナムプロダクションと専属マネージメント契約を結び、タレント活動の幅を広げています。こうした契約により、試合以外でも安定した収入を得られる体制を構築できていたことは、選手生活の大きな支えになったでしょう。
スポンサー契約やグッズ販売、イベント出演料などを合算すると、トップボクサーとしての総収入はファイトマネーの1.5倍から2倍になることも珍しくありません。八重樫氏の全盛期の年収は、こうした副収入を含めると1億円を超えていた年もあったかもしれないと想像できます。
3階級制覇王者としての輝かしい戦績
- 岩手県初の世界王者誕生までの道のり
- 伝説となった激闘の数々
- 日本ボクシング史に刻まれた偉業
岩手県初の世界王者誕生までの道のり
八重樫東氏は1983年2月25日、岩手県北上市で生まれました。高校時代にインターハイでモスキート級優勝、大学時代に国体ライトフライ級優勝を果たすなど、アマチュアで70戦56勝の実績を積み上げてきました。
2005年3月のプロデビューから順調に勝ち星を重ね、わずか5戦目でOPBF東洋太平洋ミニマム級王座を獲得する快挙を達成しました。この記録は当時の日本最速タイ記録であり、若き才能が早くも開花した瞬間でした。
そして2011年10月24日、ポンサワン・ポープラムックとの壮絶な打ち合いを10回TKOで制し、念願の世界王座を獲得します。この試合は世界中のボクシングメディアから「年間最高試合」に選ばれるほどの激闘となり、岩手県出身初の世界王者が誕生した歴史的瞬間となりました。
伝説となった激闘の数々
八重樫東氏のボクシングスタイルは、「激闘王」の異名が示すとおり、真正面から打ち合う迫力あるものでした。もともとアマチュア時代はテクニックに優れたアウトボクサーでしたが、プロ転向後は引退勧告を受けたことをきっかけにスタイルを大きく変更したのです。
2012年6月20日の井岡一翔選手との日本初の団体王座統一戦は、まさに伝説となった一戦です。両まぶたを大きく腫れ上がらせながらも最終ラウンドまで激しく打ち合い、判定で敗れたものの視聴者から300件を超えるメッセージが届き、その約170件が八重樫氏への激励だったといいます。
さらに2014年9月のローマン・ゴンサレス戦では、当時最強と謳われた王者に果敢に挑み、TKO負けながらも「逃げずに戦った」姿勢が高く評価されました。負けても株が上がる稀有なボクサーとして、八重樫氏は多くのファンの記憶に深く刻まれることになったのです。
日本ボクシング史に刻まれた偉業
2013年4月8日、八重樫東氏は飛び級でWBC世界フライ級王座を獲得し、2階級制覇を達成しました。五十嵐俊幸選手を大差の判定で下したこの試合により、リングマガジン認定の正規王座も手にすることになります。
そして2015年12月29日、IBF世界ライトフライ級王座を獲得し、ついに日本人男子3人目となる3階級制覇を成し遂げました。この偉業により、三大メジャー団体すべての正規王座を獲得して3階級制覇を達成した初の日本人王者として歴史に名を刻んだのです。
プロ通算戦績は35戦28勝16KO7敗という数字が示すとおり、勝率は80%を誇ります。敗れた試合でさえ激闘と称賛される内容だったことを考えれば、この戦績は八重樫東氏のボクサーとしての真価を如実に物語っているといえるでしょう。
引退後のトレーナーとしての現在と多彩な活動
- 大橋ジムでのトレーナー業と指導哲学
- 井上尚弥選手を支える重要な存在
- 飲食業や解説者としての多角的な挑戦
大橋ジムでのトレーナー業と指導哲学
2020年9月1日、八重樫東氏は引退会見を開き、ボクサー人生に終止符を打ちました。入門した日と同じ9月1日を選んだのは、16年間のボクサー人生を「完走した」という思いを込めたからだといいます。
引退後は大橋ジムのトレーナーとして後進の指導にあたり、特に中垣龍汰朗選手のチーフトレーナーに就任しました。「ボクシングに育てられた恩返しをしたい」という八重樫氏の言葉には、これまで支えてくれた競技への深い感謝が込められています。
座右の銘である「懸命に悔いなく」を体現してきた経験は、若手選手たちにとって何物にも代えがたい教材となっているはずです。自身の激闘の日々を振り返りながら、メンタル面でもテクニック面でも選手たちに的確なアドバイスを送り続けています。
井上尚弥選手を支える重要な存在
現在、八重樫東氏は「モンスター」井上尚弥選手のトレーナーチームの一員として活躍しています。現役時代は同じ大橋ジムに所属していたものの挨拶程度の関係でしたが、トレーナーになってから本格的に交流が深まったといいます。
井上選手の日々のトレーニングメニューを課す役割を担い、世界最高峰のボクサーの強さを支える裏方として重要な貢献をしています。2024年には武居由樹選手のトレーナーも兼任しており、複数の世界王者候補を同時に指導するという責任ある立場に就いているのです。
「激闘王」として培った不屈の精神と、3階級制覇王者としての技術的な知見は、次世代のチャンピオンたちにとってかけがえのない財産となっています。八重樫氏の指導を受けた選手たちが世界の頂点を目指す姿は、彼の現役時代とはまた違った形での「激闘」といえるかもしれません。
飲食業や解説者としての多角的な挑戦
八重樫東氏は横浜市瀬谷駅前のスポーツバー「居酒屋ダイニングカウント8」に出資し、妻と友人が共同経営する形で飲食業にも携わっています。一時は経営が厳しく、テレビ番組「坂上&指原のつぶれない店」で改革指導を受けるなど、新たな分野での苦労も経験しました。
テレビ解説者としても精力的に活動しており、フジテレビのボクシング番組「ダイヤモンドグローブ」などで試合解説を担当しています。自身の豊富な実戦経験を活かした解説は説得力があり、視聴者に試合の奥深さを伝える貴重な存在となっているのです。
さらに横浜ベイシェラトンホテルとコラボレーションし、八重樫東氏監修のスペシャルボクシングレッスンも展開しています。トレーナー業、飲食業、メディア出演と多岐にわたる活動は、引退後も「懸命に悔いなく」生きる彼の姿勢そのものといえるでしょう。
八重樫東についてのまとめ
八重樫東氏の年収は、世界王者時代にファイトマネーと副収入を合わせて年間5000万円から1億円に達していたと推測されます。引退後は大橋ジムのトレーナーとして井上尚弥選手らを指導し、新たなキャリアを築いています。
この記事の要点を復習しましょう。
- 世界王者のファイトマネーは1試合1000万円から5000万円で、所属ジムが33%を徴収する
- 八重樫東氏は2011年に岩手県出身初の世界王者となり、激闘王の異名を得た
- WBA、WBC、IBF各団体の最上位王座のみで3階級制覇を達成した初の日本人
- 井岡一翔戦やロマゴン戦など、敗れても株が上がる伝説的な試合を展開した
- 2020年引退後は大橋ジムのトレーナーとして井上尚弥選手らを指導している
- テレビ解説者、飲食業経営など多角的な活動で第二の人生を歩んでいる
「激闘王」として多くのファンを魅了し続けた八重樫東氏は、現在もボクシング界で重要な役割を果たしています。トレーナーとして次世代の世界王者を育てる彼の姿は、リング上とはまた違った輝きを放っているのです。
