さつまいもを食べるたびに、「甘藷先生」と呼ばれた人物のことを思い出しませんか。江戸時代の多くの人々を飢えから救った青木昆陽という学者が、どのような人生を歩み、何を成し遂げたのか、あなたは詳しくご存知でしょうか。
そこで今回は、魚屋の息子から幕府の重要人物へと上り詰めた青木昆陽の波乱に満ちた生涯と、彼を襲った流行性感冒という死因、そして現代まで続く子孫の謎について、詳しく解説していきます。この記事を読めば、教科書には載っていない昆陽の人間らしい姿や、彼が残した功績の深い意味が見えてくるはずです。
青木昆陽の生涯と功績
- 魚屋の息子から学者へ
- さつまいもとの運命的な出会い
- 『蕃薯考』が示した救国の道
魚屋の息子から学者へ
元禄11年(1698年)、江戸の日本橋小田原町で、魚問屋を営む佃屋半右衛門の一人息子として生まれた青木昆陽は、本名を敦書といいました。商人の家に生まれながら、幼い頃から書物に強い興味を示し、将来は学問の道を歩みたいという密かな夢を抱いていたのです。
父の跡を継ぐべき立場にありながら、22歳のときに親の反対を押し切って京都へ向かい、当時著名な儒学者であった伊藤東涯の門を叩きました。この決断は、親孝行を重んじる江戸時代において極めて勇気のいる選択だったに違いありません。
京都での修行を終えて江戸に戻った昆陽は、27歳のときに私塾を開いて生計を立てていました。しかし、町奉行所の与力である加藤枝直が、昆陽の学識と人柄に深く感銘を受け、名奉行として知られる大岡忠相に推挙したことで、彼の人生は大きく変わっていくことになります。
さつまいもとの運命的な出会い
享保17年(1732年)に発生した享保の大飢饉は、日本中に深刻な被害をもたらし、多くの餓死者を出しました。この悲惨な状況を目の当たりにした昆陽は、京都で学んでいた頃に書物で知った甘藷(さつまいも)が、人々を救う鍵になると確信したのです。
興味深いことに、薩摩国では既にさつまいもが普及しており、同じ飢饉の時期でも餓死者が少なかったという事実がありました。痩せた土地でも育ち、短期間で収穫でき、栄養価も高いこの作物こそ、飢饉に苦しむ民を救済できる希望の星だったわけです。
昆陽がさつまいもに目をつけたのは、単なる偶然ではなく、本草学という植物の薬効を研究する学問を修めていたからでした。知識と観察力、そして何より人々を救いたいという強い使命感が、彼をさつまいも普及という壮大なプロジェクトへと駆り立てたといえるでしょう。
『蕃薯考』が示した救国の道
享保20年(1735年)、昆陽は自らの研究成果を『蕃薯考』という書物にまとめ上げました。この著作は、さつまいもの栽培方法や貯蔵法、さらには13か条にわたる利点を詳細に記した、日本初の本格的なさつまいも専門書だったのです。
驚くべきことに、この『蕃薯考』を大岡忠相に提出したとき、昆陽はまだ無名の寺子屋教師に過ぎませんでした。しかし、その内容は将軍徳川吉宗の目に留まり、幕府の正式な事業として関東でのさつまいも栽培が決定されたのです。
この書物の真価は、単なる技術書ではなく、飢饉に苦しむ庶民への深い共感と、具体的な解決策を示した実学の結晶だった点にあります。学問は人を救うためにあるという昆陽の信念が、この一冊に凝縮されていたといっても過言ではないでしょう。
試験栽培の苦難と成功
- 霜に負けなかった執念
- 幕張・小石川での奮闘
- 関東全域への広がりと影響
霜に負けなかった執念
薩摩藩から1500個もの種芋が届けられ、いよいよ試験栽培が始まろうとしたとき、予想外の試練が昆陽を襲いました。江戸の厳しい寒さと霜のため、大切な種芋の多くが腐ってしまったのです。
プロジェクトの責任者として、将軍や大岡忠相の期待を一身に背負っていた昆陽にとって、これは絶望的な状況だったに違いありません。しかし、彼は決してあきらめず、使える種芋を慎重に選別し、自ら試験地に足を運んで一つひとつ丁寧に植え付けていきました。
学者としての知識だけでなく、自らの手を土で汚して実践する姿勢こそが、昆陽の真骨頂でした。この執念と実直さがなければ、関東でのさつまいも栽培は成功しなかったかもしれないと思うと、彼の功績の重みがより一層感じられます。
幕張・小石川での奮闘
試験栽培地として選ばれたのは、小石川薬園(現在の小石川植物園)、下総国馬加村(現在の千葉市幕張)、そして上総国不動堂村(現在の九十九里町)の3か所でした。昆陽は年間117日の勤務日のうち、わずか7日しか現地に赴けなかったという記録が残っています。
しかし、限られた時間の中でも、昆陽は種芋から出た蔓を取り、それを植え替えるという地道な作業を怠りませんでした。気候の異なる関東で西日本の作物を育てることは、想像以上に困難を伴う挑戦だったはずです。
そして享保20年(1735年)11月、ついに畑から大きなさつまいもが収穫されました。享保の大飢饉から3年、昆陽の信念が正しかったことが証明された瞬間であり、日本の農業史において画期的な出来事となったのです。
関東全域への広がりと影響
試験栽培の成功を受けて、幕府は関東一帯でさつまいも栽培を本格的に推進する方針を固めました。昆陽は元文元年(1736年)に薩摩芋御用掛を拝命し、ついに幕臣の身分を得たのです。
さらに彼は、庶民にもわかりやすい『甘藷之記』という書物を発表し、一般の農民にも栽培方法や調理法を広めることに力を注ぎました。この努力により、さつまいもは単なる救荒作物から、日常的に親しまれる食材へと変貌を遂げていったのです。
昆陽の功績は、後の天明の大飢饉(1782年~1788年)や天保の大飢饉(1833年~1839年)において、数え切れないほどの人命を救うことになります。現代の私達が気軽にさつまいもを楽しめるのも、200年以上前に孤独な戦いを続けた一人の学者のおかげだと思うと、感慨深いものがあります。
晩年の活動と死因・子孫
- 蘭学者としての新たな挑戦
- 流行性感冒による最期
- 子孫の痕跡と現代への継承
蘭学者としての新たな挑戦
元文4年(1739年)に御書物御用達を拝命した昆陽は、さつまいも栽培の第一線からは退き、新たな学問領域へと歩を進めました。寺社奉行となった大岡忠相の配下で、甲斐・信濃・三河など徳川家旧領の古文書調査を行い、『諸州古文書』という貴重な資料集を作成したのです。
さらに注目すべきは、1740年に将軍吉宗から野呂元丈とともにオランダ語の学習を命じられたことです。短期間ながら長崎に赴いてオランダ人や通訳から直接学び、『和蘭文訳』や『和蘭文字略考』といった蘭学の入門書を残しました。
驚くべきことに、昆陽の最晩年の弟子には、後に『解体新書』を著すことになる前野良沢がいました。さつまいもの先生から蘭学の先駆者へ、そして後進への学問の継承者へと、昆陽の生涯は常に時代の最先端を走り続けたのです。
流行性感冒による最期
明和6年(1769年)10月12日、青木昆陽は流行性感冒(インフルエンザ)によってこの世を去りました。享年72という当時としては長寿の部類に入る人生でしたが、最期は突然の病魔に襲われる形となったのです。
興味深いのは、昆陽が生前に自ら墓石に「甘薯先生墓」と刻むよう遺言していたことです。これは寿塔と呼ばれる生前墓であり、蘭学者としても活躍した彼が、最も誇りに思っていたのはさつまいもで人々を救った功績だったことを物語っています。
彼の墓は東京都目黒区の瀧泉寺(目黒不動尊)にあり、1943年に国の史跡に指定されました。毎年10月28日には縁日で「甘藷まつり」が開かれ、現代でも多くの人々が昆陽の遺徳を偲んでいるのです。
子孫の痕跡と現代への継承
青木昆陽の子孫については、実は明確な記録がほとんど残されていません。彼自身が魚屋の一人息子として生まれたことは記録されていますが、彼の子供や孫についての確実な情報は見つかっていないのです。
2015年に青木姓の人物が自身を昆陽の子孫だと述べた事例や、現代の芸人が関連を語ったという話題はあるものの、いずれも確証には至っていません。おそらく、幕臣として多忙な日々を送り、学問研究に打ち込んだ昆陽には、家系を継ぐという点での記録が残りにくかったのかもしれません。
しかし、血統としての子孫が不明であっても、彼の精神や功績は確実に現代へと受け継がれています。千葉市幕張の昆陽神社では「芋神様」として祀られ、九十九里町には「関東地方甘藷栽培発祥の地」の碑が建てられており、昆陽の志は形を変えて生き続けているのです。
青木昆陽についてのまとめ
青木昆陽という人物は、江戸時代の飢饉という国難に立ち向かい、学問の力で無数の人命を救った稀有な存在でした。魚屋の息子から幕臣へ、そしてさつまいもの先生から蘭学の開拓者へと、彼の人生は常に挑戦と変革の連続だったのです。
この記事の要点を復習しましょう。
- 昆陽は1698年に江戸の魚屋の一人息子として生まれ、学問への情熱から京都で儒学を学んだ
- 享保の大飢饉をきっかけにさつまいもの救荒作物としての可能性に注目し、『蕃薯考』を著した
- 種芋が霜で腐るなど困難に直面しながらも、幕張・小石川での試験栽培を成功させた
- 元文元年(1736年)に幕臣となり、さつまいもは関東全域に広まって後の大飢饉で多くの命を救った
- 晩年は古文書調査や蘭学研究に従事し、前野良沢に学問を伝えた
- 1769年に流行性感冒(インフルエンザ)により72歳で死去し、自ら「甘薯先生墓」と刻んだ寿塔を残した
子孫についての明確な記録は残っていませんが、彼の功績と精神は昆陽神社や各地の記念碑、そして毎年の甘藷まつりを通じて現代まで継承されています。私達が今日さつまいもを楽しむとき、それは単なる食材ではなく、人々を救おうとした一人の学者の情熱の結晶なのだと、改めて認識する価値があるのではないでしょうか。
