弘田三枝子の活躍から晩年まで。死因と夫・娘・孫の現在

昭和を代表する名歌手・弘田三枝子さんの名前を聞いて、あなたはどのような印象を抱くでしょうか。若い世代にとってはあまり馴染みのない名前かもしれませんが、山下達郎さんや桑田佳祐さんといった大物ミュージシャンたちが影響を受けたと公言する、まさに歌謡界のレジェンドなのです。

そこで今回は、この伝説的歌手の輝かしいキャリアと人生最後の日々、そして気になるプライベートについて詳しく掘り下げていきます。歌手としての偉大な足跡だけでなく、彼女の家族や晩年の様子を知ることで、より深くその人生の軌跡を理解できるはずです。

弘田三枝子の歌手としての輝かしい足跡

  • 天才少女としての鮮烈なデビューと全盛期
  • カムバックを果たした転機となった作品
  • 音楽界への影響と後世への功績

天才少女としての鮮烈なデビューと全盛期

弘田三枝子さんは幼少期から並外れた歌唱の才能を発揮していました。小学生時代から米軍キャンプのステージに立ち、英語の発音を徹底的に磨きながら、洋楽を歌いこなす技術を身につけていったのです。

そして1961年、わずか14歳という若さで「子供ぢゃないの」によりデビューを飾ります。その翌年には早くもNHK紅白歌合戦への出場を果たし、当時の紅組最年少出場記録を樹立するという快挙を成し遂げました。

彼女の最大の武器は、年齢を感じさせない力強い歌声でした。「ヴァケーション」をはじめとする洋楽カバー曲を次々とヒットさせ、「パンチのミコちゃん」という愛称で全国的な人気を獲得したのは、まさに実力の証明だったと言えるでしょう。

カムバックを果たした転機となった作品

1960年代後半に入ると、音楽シーンの変化とともに彼女の人気にも陰りが見え始めました。グループサウンズブームの到来により、かつてのアメリカンポップス歌手というイメージが古く感じられるようになってしまったのです。

しかし1969年、彼女は見事な復活を遂げます。大幅なダイエットによってイメージを一新し、「人形の家」という楽曲で日本レコード大賞歌唱賞を獲得したのです。

この成功の背景には、自身を変革する勇気と努力がありました。彼女が出版したダイエット本「ミコのカロリーBOOK」は150万部を超える大ベストセラーとなり、歌手としてだけでなく、美容・ファッション分野でも注目される存在となったのです。

音楽界への影響と後世への功績

弘田三枝子さんの真の偉大さは、後進のアーティストたちに与えた影響の大きさにあります。山下達郎さんは彼女を「戦後最高の力量をもつシンガーのひとり」と絶賛し、桑田佳祐さんも「存在自体がポップ」と評価しました。

1965年には東洋人として初めてニューポート・ジャズ・フェスティバルに招かれ、世界の舞台でその実力を証明しています。ジャズからポップス、歌謡曲まで幅広いジャンルを歌いこなす技術は、まさに第一級のものでした。

最晩年まで音楽への探究心を持ち続け、常に新しい楽曲を研究する姿勢は多くの関係者に感銘を与えました。舞台袖で他の歌手の歌に耳を傾け、常に吸収しようとする謙虚な姿勢こそが、彼女が長く愛され続けた理由なのかもしれません。

弘田三枝子の私生活と家族について

  • 複雑な恋愛遍歴と結婚に至らなかった事情
  • 娘の存在とシングルマザーとしての人生
  • 孫に関する限られた情報

複雑な恋愛遍歴と結婚に至らなかった事情

弘田三枝子さんの私生活は、決して平坦なものではありませんでした。1970年代半ば、彼女はギタリストの杉本喜代志さんと交際関係にありましたが、相手には妻子がいるという複雑な状況でした。

この関係は1977年1月、衝撃的な事件へと発展します。杉本さんの妻が果物ナイフを持って弘田さんのマンションを訪れ、彼女の背中を刺すという傷害事件が発生したのです。

この事件後、弘田さんは日本を離れアメリカへと渡りました。芸能界から距離を置き、人生の再スタートを切ろうとしたこの決断は、当時の彼女にとって必要な選択だったのでしょう。

娘の存在とシングルマザーとしての人生

アメリカ滞在中の1978年、弘田さんは航空会社に勤務する男性と出会います。しかしこの男性もまた、既に4番目の妻と3人の子供を抱える身でした。

それでも二人は1978年9月に挙式を行いましたが、相手の離婚が成立しなかったため、正式な結婚には至りませんでした。そして1979年2月、弘田さんはアメリカで女の子を出産します。

娘の名前は「えりか」とも伝えられていますが、彼女についての公開情報はほとんどありません。出産後まもなく相手と別れた弘田さんは、娘を連れて日本に帰国し、シングルマザーとして歌手活動を再開する道を選んだのです。

孫に関する限られた情報

弘田三枝子さんに孫がいるという情報については、明確な確認が難しい状況です。あるウェブメディアの記事によれば、弘田さん自身が「私にも孫がいるのよ」と話していたという記述がありますが、詳細は不明のままです。

1979年生まれの娘さんが現在40代半ばであることを考えると、孫がいても不思議ではない年齢ではあります。しかし娘さん自身がメディアに一切登場していないため、その生活状況や家族構成については謎に包まれています。

プライバシーを重視する家族の方針なのか、あるいは別の事情があるのか、真相は分かりません。ただ、弘田さんが家族との時間を大切にしながら、歌手としての活動も続けていたことは間違いないでしょう。

弘田三枝子の晩年と最期の日々

  • 現役を貫いた晩年の活動
  • 突然の死とその死因
  • 訃報に対する音楽界の反応

現役を貫いた晩年の活動

弘田三枝子さんは晩年に至るまで、決して歌うことを諦めませんでした。メディアへの露出は減少したものの、小規模なライブやディナーショーを中心に、熱心なファンに向けて歌い続けていたのです。

2015年にはデビュー55周年を記念して、32年ぶりとなる新曲をリリースしています。そして2020年はデビュー60周年のアニバーサリーイヤーとして、記念コンサートなどの企画が進められていました。

しかし新型コロナウイルスの感染拡大により、これらの計画は延期を余儀なくされます。「来年に持ち越しね!」とスタッフと前向きに話し合っていた彼女の姿からは、まだまだ歌い続けたいという強い意欲が感じられました。

突然の死とその死因

2020年7月20日、弘田三枝子さんは千葉県内の自宅で突然倒れました。たまたま訪れていた姉がすぐに119番通報し、病院へと緊急搬送されましたが、翌21日午後10時31分、心不全により73年の生涯を閉じたのです。

驚くべきことに、倒れる前日まで彼女は普段と変わらず元気に過ごしていたといいます。このあまりに突然の出来事は、関係者やファンに大きな衝撃を与えました。

心不全という死因は、心臓の働きが急速に弱まることで起こる状態です。年齢的な要因もあったかもしれませんが、明確な前兆がなかったことを考えると、本当に予期せぬ最期だったと言えるでしょう。

訃報に対する音楽界の反応

弘田三枝子さんの訃報は、亡くなってから6日後の7月27日に公表されました。新型コロナウイルス感染症の影響も考慮し、葬儀は親族のみで密葬として執り行われたのです。

山下達郎さんは彼女の死を悼み、追悼するメディアの少なさを残念がりました。桑田佳祐さんも「ナンバーワンだった」と追悼コメントを寄せるなど、彼女に影響を受けた大物ミュージシャンたちから惜しむ声が相次ぎました。

残念ながら、1970年代後半以降はヒット曲に恵まれなかったため、若い世代には知名度が低かったのも事実です。しかし彼女の歌唱力と音楽への貢献は、時代を超えて評価されるべき価値あるものだったことは間違いありません。

弘田三枝子についてのまとめ

弘田三枝子さんは、戦後日本の歌謡界に燦然と輝く足跡を残した偉大な歌手でした。14歳でのデビューから73歳での急逝まで、彼女の人生は音楽とともにあったと言えるでしょう。

この記事の要点を復習しましょう。

  1. 1961年、14歳で「子供ぢゃないの」によりデビューし、洋楽カバーで人気を博した
  2. 1969年の「人形の家」で見事なカムバックを果たし、日本レコード大賞歌唱賞を受賞した
  3. 正式な結婚はせず、事実婚の関係から1979年に娘を出産しシングルマザーとして育てた
  4. 孫の存在については明確な情報が少なく、娘の現在についても詳細は不明である
  5. 2020年7月21日に心不全により73歳で急逝した
  6. 山下達郎や桑田佳祐など多くのミュージシャンに多大な影響を与えた

恋愛や家族の面では波乱に満ちた人生を送った弘田さんですが、歌への情熱は決して衰えることがありませんでした。その真摯な姿勢と卓越した歌唱力は、これからも多くの人々の心に残り続けることでしょう。

参考リンク

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