2020年春、日本中が新型コロナウイルスの脅威に震えていた頃、ある光景が人々の記憶に強く刻まれました。それは、観光地・熱海の国道沿いに立ち並ぶ「いまは静岡に来ないで」という看板でした。
そこで今回は、あの衝撃的なメッセージが何を意味していたのか、観光地が抱えた葛藤とは何だったのか、そして現在の視点から振り返って何を学ぶべきなのかを検証していきます。当時の状況を丁寧に振り返ることで、危機における地域の意思決定について、あなたも新たな視点を得られるはずです。
「来ないで」の背景にあったもの
- あの看板が設置された経緯
- 観光地が直面した究極の選択
- 地域社会の切実な事情
あの看板が設置された経緯
2020年4月29日、ゴールデンウィークの初日に、静岡県は県境をまたぐ主要道路や道の駅など12カ所に来訪自粛を求める看板を設置しました。熱海市内では、首都圏から伊豆半島へと続く国道135号沿いに、わずか約300メートルの区間に27枚もの看板が密集して配置されたのです。
看板には「いまは静岡に来ないで」「この先施設休業中」といった直接的なメッセージが記されていました。さらに県や市の職員、地元観光協会の関係者ら21人が同じ文言を記したのぼり旗を掲げ、道路沿いで呼びかけを行うという異例の対応でした。
この取り組みは5月6日までの期間限定で実施され、一部の有料道路料金所では県外ナンバーの車を対象にチラシの配布も行われました。現地を訪れた人々の証言によれば、それでも品川や横浜など首都圏のナンバープレートをつけた車が行き交う様子が見られたといいます。
観光地が直面した究極の選択
熱海にとって、この決断は想像を絶するほど苦しいものだったに違いありません。なぜなら、熱海は観光業を主要産業とする街であり、来訪者を歓迎することこそが存在意義とも言える場所だからです。
実は熱海は、2013年から「意外と熱海」というブランドキャンペーンを展開し、若年層の観光客誘致に成功していました。一度は衰退の危機に瀕していた熱海が、2017年には約310万人の宿泊客数まで回復し、「熱海の奇跡」とまで呼ばれるV字回復を遂げていたのです。
そんな矢先のコロナ禍で、自ら「来ないでほしい」と訴えることは、これまでの努力を水泡に帰すような行為にも思えたでしょう。しかし県道路企画課の担当者が「来県を控えてもらうのは苦渋の対応になるが、理解してほしい」と述べたように、これは経済よりも命を優先する決断だったのです。
地域社会の切実な事情
当時の熱海市長は、市内の別荘所有者に対しても「5月6日までの間、熱海に来ないでいただき、落ち着いたときに来てほしい」という異例のメッセージを発信していました。熱海市には約9千人もの別荘等所有者がおり、これは市の人口約3万6千人の4分の1に相当する規模でした。
地域住民の視点から見れば、医療資源が限られた観光地に感染者が流入することへの恐怖は切実なものだったはずです。特に高齢者が多い地方都市では、感染拡大が即座に医療崩壊につながりかねないという危機感がありました。
市長は「これから来ようと思っている客に伝えることが、コロナ収束に向けての行動になる。力を合わせてやっていく」と述べ、観光客を拒絶するのではなく、一時的な協力を求める姿勢を示しました。この言葉からは、観光地としてのアイデンティティと住民の安全の間で揺れ動く、リーダーの苦悩が伝わってきます。
社会に巻き起こった波紋
- 賛否両論を呼んだ看板設置
- インターネット上での反応
- 観光業界への深刻な打撃
賛否両論を呼んだ看板設置
この看板設置は、社会に大きな波紋を広げました。感染拡大防止を最優先する立場からは支持する声が上がった一方で、表現の強さや排他的な印象を問題視する意見も少なくありませんでした。
実際に現地を訪れた人々の中には、看板やパネルをじっくりと見ている姿が多く観察されたといいます。道の駅の駅長代理は「県外ナンバーが予想以上に多いが、看板やパネルを見ている人は多い」と効果に一定の期待を寄せていました。
一方で、来訪者の中には複雑な心境を抱いた人もいたでしょう。観光を楽しみにしていた人々にとって、この看板は歓迎されていないという強いメッセージとして受け取られた可能性があります。
インターネット上での反応
ソーシャルメディア上では、この取り組みに対して厳しい批判の声も上がりました。「排除するような街はコロナ騒ぎが終わるとコロッと『熱海にお越し下さいまし』って猫撫で声に変異するから」といった辛辣な意見が投稿され、一部で注目を集めました。
こうした反応は、観光地と観光客の関係性の脆さを浮き彫りにしたとも言えます。平時には歓迎される存在が、非常時には「感染リスク」として警戒される対象に変わってしまうという構図に、多くの人が違和感や複雑な感情を抱いたのではないでしょうか。
しかし冷静に考えれば、これは観光地の本音というよりも、当時の社会全体が抱えていた不安と恐怖の表れだったとも解釈できます。誰もが正解のわからない状況下で、少しでも感染拡大を抑えようとする必死の取り組みだったのです。
観光業界への深刻な打撃
この看板設置の効果もあって、実際に熱海への来訪者は減少しました。しかし、それは観光業界にとって壊滅的な打撃を意味していました。
コロナ禍の影響で、熱海の宿泊客数は何と東日本大震災の時期を下回る約150万人にまで落ち込んだのです。これは、「意外と熱海」キャンペーンで達成した300万人台の半分以下という、衝撃的な数字です。
旅館やホテルの経営者たちは、感染対策を徹底しながらも客足が途絶える日々に耐え忍ばなければなりませんでした。その後、緊急事態宣言の解除や各種支援策により徐々に回復していきますが、失われた2年間の影響は計り知れないものがあったはずです。
振り返って見えてくること
- 看板撤去とその後の動き
- 危機管理における教訓
- 現在の熱海が示す回復力
看板撤去とその後の動き
2020年6月1日、緊急事態宣言の全面解除を受けて、熱海市内に設置されていた看板とのぼり旗は撤去されました。雨の中、県の委託を受けた業者が作業にあたり、約1カ月にわたって続いた異例の取り組みは終わりを告げたのです。
しかし、すぐに完全な日常が戻ったわけではありませんでした。道路情報の電光掲示板の文言は「自粛」から「できるだけ自粛」に修正されるなど、段階的な緩和が進められました。
興味深いのは、7月には再び「今は東京から来ないで」という呼びかけが行われたという点です。これは、GoToトラベルキャンペーンの開始時期に東京での感染者が増加し、熱海でも首都圏が感染源とみられるクラスターが発生したことを受けての対応でした。
危機管理における教訓
この一連の出来事から、数多くの重要な教訓を得ることができます。まず、観光地は経済と安全のバランスという、常に難しい選択を迫られる立場にあるということです。
また、メッセージの伝え方の難しさも浮き彫りになりました。「来ないで」という直接的な表現は確かにインパクトがありましたが、受け手によっては拒絶や排除と受け取られるリスクもあったのです。
しかし同時に、曖昧な表現では人々の行動を変えられなかったかもしれないという側面も否定できません。非常時におけるコミュニケーションの難しさは、現代社会が向き合い続けなければならない課題だと言えるでしょう。
現在の熱海が示す回復力
2022年度には宿泊客数が約250万人まで回復し、熱海は徐々に活気を取り戻しつつあります。この回復は、コロナ禍を経てもなお観光地としての魅力が失われていないことの証明です。
現在の熱海は、ビジネス利用や旅先テレワークの誘致など、新しい観光スタイルの開拓にも積極的に取り組んでいます。「来ないで」と訴えざるを得なかった経験が、より持続可能な観光地づくりへの契機となっているのかもしれません。
あの看板は、観光地の脆弱性と同時に、地域社会の強い結束力も示していました。苦しい決断を共に乗り越えた経験は、熱海という街にとって、きっと貴重な財産になっているはずです。
「熱海に来ないで」についてのまとめ
2020年春の「熱海に来ないで」という看板は、新型コロナウイルスという未曾有の危機に直面した観光地の苦渋の決断を象徴するものでした。この出来事は、経済活動と公衆衛生のジレンマ、地域社会の結束、そして危機管理におけるコミュニケーションの難しさなど、多くの課題を突きつけました。
この記事の要点を復習しましょう。
- 2020年4月29日、静岡県が県境12カ所に来訪自粛を求める看板を設置し、熱海では国道沿いに27枚が密集配置された
- 観光業を主産業とする熱海にとって、観光客に「来ないで」と訴えることは究極の選択だった
- 別荘所有者にもメッセージが発信されるなど、地域社会全体で感染拡大防止に取り組んだ
- この取り組みは賛否両論を呼び、ソーシャルメディア上でも激しい議論が交わされた
- コロナ禍で宿泊客数は約150万人まで激減し、観光業界は深刻な打撃を受けた
- 看板は6月1日に撤去されたが、その後も段階的な対応が続けられた
あの看板は決して観光客を拒絶するためのものではなく、一時的な協力を求める切実な呼びかけでした。現在、回復の途上にある熱海の姿を見るとき、あの困難な時期を乗り越えた地域の力強さと、観光地と観光客が互いを思いやることの大切さを改めて実感できるのではないでしょうか。
