ダンプ松本の出身中学・若い頃・結婚相手と現在

1980年代の女子プロレス界で「日本で一番殺したい人間」と呼ばれた悪役レスラーがいたことをご存知でしょうか。金髪に奇抜なメイク、竹刀を振り回す凶悪な姿で全国のファンから憎まれながらも、実はその裏側で母親への深い愛情と複雑な家庭事情を抱えていた一人の女性の物語があります。

今回は、2024年9月にNetflixドラマ「極悪女王」で再び脚光を浴びたダンプ松本さんの知られざる出身中学時代から現在に至るまでの人生を、独自の視点で紐解いていきます。彼女が歩んできた道のりは、単なるプロレスラーの成功物語ではなく、家族愛と葛藤、そして自分自身との闘いの記録でもあるのです。

出身中学時代と若い頃の原体験

  • 熊谷市で過ごした多感な中学時代
  • マッハ文朱との運命的な出会い
  • 大宮開成高校でのアーチェリー部時代

熊谷市で過ごした多感な中学時代

ダンプ松本さんは1960年11月11日、埼玉県熊谷市で生まれ、具体的な学校名は明かされていないものの、地元の中学校でバスケ部と水泳部に所属する活発な少女でした。しかし家庭では、働かずに酒とギャンブルに溺れる父親の存在が、幼い彼女の心に深い傷を刻んでいたのです。

母親が内職で家計を支える中、一枚のハムカツを家族で分け合うような貧しい生活を送りながらも、彼女は母親を守りたいという強い思いを育んでいきました。この頃の経験が、後に「母親に家を買ってあげたい」という夢へとつながり、プロレスラーを志す原動力になったと考えられます。

中学時代の彼女は、表面的には明るく活発な少女でしたが、内面では父親への憎しみと母親への愛情という相反する感情を抱えていました。この二面性は、後の「極悪ダンプ」と「優しい松本香」という二つの顔を持つプロレスラーとしての活動にも反映されることになるのです。

マッハ文朱との運命的な出会い

中学生の時、テレビで見たマッハ文朱が試合に負けた後、リングで涙を流しながら「花を咲かそう」を歌う姿に、少女だった松本香さんは強い衝撃を受けました。それまでの女子プロレスとは全く異なるアイドル的な世界観に魅了され、初めて「プロレスラーになりたい」という明確な夢を抱いたのです。

高校生になるとビューティ・ペアのジャッキー佐藤の熱狂的なファンとなり、応援ハッピを着て試合会場に通うようになりました。対戦相手のヒール役に「ふざけるな!バカヤロー!」と怒鳴っていた彼女が、数年後に自分がその立場になるとは、この時は想像もしていなかったことでしょう。

プロレスへの憧れは単なる娯楽への興味ではなく、貧困から抜け出し母親を幸せにする手段としての側面も持っていました。華やかなリングの世界は、暗い家庭環境から逃れる希望の光であり、同時に経済的成功への道筋でもあったのです。

大宮開成高校でのアーチェリー部時代

高校は、新設されるプールで水泳部に入ることを期待して大宮開成高校を選びましたが、入学後にプール建設が中止となり、代わりにアーチェリー部に入部することになりました。運命のいたずらか、この選択が彼女の集中力と精神力を鍛え、後のプロレス人生に大きく役立つことになります。

補欠ながらもインターハイに出場するほどの実力を身につけた彼女は、目標に向かって努力する姿勢と、プレッシャーに耐える強さを培いました。アーチェリーで鍛えた集中力は、後にリング上で数万人の観客から罵声を浴びながらも動じない精神力の基礎となったのではないでしょうか。

この時期、父親とは既に45年間も会話を交わさなくなる関係となっており、家庭内の緊張感は極限に達していました。しかし、そんな環境だからこそ、彼女はより強く「プロレスで成功して母親を救う」という決意を固めていったのです。

プロレスラーとしての栄光と苦悩

  • 松本香からダンプ松本への変貌
  • クラッシュギャルズとの伝説の抗争
  • ヒール役がもたらした光と影

松本香からダンプ松本への変貌

1980年に本名の松本香でデビューした彼女は、当初はベビーフェイスでの活動を考えていましたが、自分の体格を活かしてヒールとして頂点を目指すことを選択しました。1984年、会社にも無断で髪を金色に染め、派手なペイントを施して「ダンプ松本」として生まれ変わった瞬間、日本女子プロレス史上最恐のヒールが誕生したのです。

リングネームの「ダンプ」は、観客が「あいつ、ダンプみてぇだ!」と叫んだことに由来しており、まさにファンが作り上げたキャラクターでした。この名前を受け入れた彼女は、徹底的に嫌われることで逆説的にスターへの道を歩み始めたのです。

金髪に奇抜なメイクは、実は笑うとえくぼが出てしまう可愛らしい素顔を隠すための仮面でもありました。KISSのコープス・ペイントを参考にしたそのビジュアルは、優しい松本香を封印し、極悪ダンプを演じきるための必要不可欠な装置だったのです。

クラッシュギャルズとの伝説の抗争

クレーン・ユウと結成した極悪同盟は、人気絶頂のクラッシュギャルズ(長与千種・ライオネス飛鳥)と激しい抗争を繰り広げ、女子プロレスを全国的なブームへと押し上げました。特に1985年8月の長与千種との敗者髪切りデスマッチは、試合後に500人以上のファンが選手バスを取り囲む暴動状態となるほどの熱狂を生み出しました。

しかし実は、長与も飛鳥も同期であり、特に飛鳥とは新人時代からルームメイトで親友だったという事実を知る人は少ないでしょう。会社の方針でベビーフェイスとヒールは公私で交流を禁じられており、引退まで表向きは口も利かない関係を演じ続けなければなりませんでした。

リング上での凶行を見た母親が、相手選手の元へ「うちの娘がごめんなさい」と謝罪に行く姿を目撃した時、彼女は一瞬プロレスを辞めようかと思ったそうです。それでも月収100万円から300万円、最盛期には年収5000万円以上という破格の報酬が、母親への恩返しという目的を果たすために必要だったのです。

ヒール役がもたらした光と影

「日本で一番殺したい人間」という異名を持つほど徹底的に嫌われた彼女は、実家への投石、新車への傷つけ、タクシーの乗車拒否など、想像を絶する嫌がらせを受け続けました。運転手から「車内で凶器攻撃を仕掛けるんじゃないだろうな」と言われた時も、怒りよりも悲しみの方が大きかったのではないでしょうか。

しかし、リングを降りた彼女は涙もろく人情に厚い性格で、後輩の悩みに親身に相談に乗り、食事に連れて行くなど面倒見の良い先輩でした。極悪同盟では「悪口・陰口・内緒話・告げ口・人を待たせること」を禁止し、自分が受けた理不尽ないじめは絶対に後輩にしないという信念を貫いていたのです。

1988年の引退試合で「クラッシュギャルズのファンの皆さん、今まで千種ちゃんや飛鳥ちゃんをいじめてすみませんでした」と号泣しながら謝罪した姿は、7年間演じ続けた極悪ダンプからの解放の瞬間でした。その涙は、母親のために背負い続けた十字架から解き放たれた安堵と、仲間たちへの申し訳なさが入り混じった複雑な感情の表れだったのです。

結婚しない選択と家族への思い

  • 独身を貫く理由と価値観
  • 父親との和解と母親への恩返し
  • 妹との絆とマネージャーとしての支え

独身を貫く理由と価値観

2024年現在63歳のダンプ松本さんは、一度も結婚することなく独身を貫いており、「結婚して幸せになった家庭を見たことがない」という言葉にその価値観が表れています。2023年4月1日に「結婚します」とブログに投稿したのはエイプリルフールのジョークで、老後への不安を抱えながらも結婚という選択はしていません。

父親の金銭問題、DV、女性問題で苦しむ母親を見て育った彼女にとって、結婚は幸せの象徴ではなく、むしろ苦痛の始まりという認識があったのかもしれません。男性への不信感は根深く、プロレスという自分の道を極めることが、結婚よりも価値のある人生だと考えたのでしょう。

理想のタイプは俳優の中村雅俊だと公言していますが、それは手の届かない存在への憧れであり、現実の恋愛や結婚とは別次元の話なのかもしれません。結婚しないことで得た自由と、プロレスに全てを捧げる生き方は、彼女なりの幸せの形だったのです。

父親との和解と母親への恩返し

50年間も口を利かなかった父親とは、2019年8月の逝去直前に奇跡的な和解を果たしました。意識朦朧の中で看護師に「この人は誰だかわかる?」と聞かれた父が「ダンプ松本」と答えた時、テレビで自分を応援していたことを知り、長年の憎しみが消えたといいます。

引退直後、母親の誕生日に「何が欲しい?」と聞いたところ「家が欲しい」と答えた母に、深谷市に新築一軒家をプレゼントできたことは、彼女の人生最大の喜びでした。プロレスで稼いだお金の大部分を使い果たしても、この恩返しができたことで、極悪を演じ続けた7年間の苦労は報われたのです。

現在88歳になる母親は今も健在で、妹と交代で実家を訪れ、買い物などの手伝いをしているそうです。ダンプ松本という仮面の下にあった本当の目的は、最愛の母親を幸せにすることだったという真実が、今になって多くの人に理解されるようになりました。

妹との絆とマネージャーとしての支え

ダンプ松本の妹であることが周囲に知られ、誹謗中傷を受けたり恋人と別れさせられたりした妹は、一時期は暴走族に加入するほど荒れていました。姉の極悪キャラクターが原因で苦しんだ妹の存在は、ダンプ松本さんにとって母親と同じくらい心の重荷だったはずです。

しかし、1988年の引退後から現在に至るまで、妹はダンプ松本さんのマネージャーとして身の回りの世話をしながら支え続けています。かつての確執を乗り越えて築かれた姉妹の絆は、血のつながり以上に強固なものとなりました。

家族のために極悪を演じ、家族に迷惑をかけ、そして最終的に家族と和解した彼女の人生は、まさに愛と葛藤のドラマそのものです。妹がマネージャーとして支える現在の関係性は、長い苦難の末にたどり着いた、松本家なりの幸せの形なのでしょう。

ダンプ松本についてのまとめ

ダンプ松本さんの人生は、表面的な極悪キャラクターの裏に隠された深い家族愛と、自己犠牲の物語でした。2024年9月に配信されたNetflixドラマ「極悪女王」によって、彼女の真実の姿が多くの人に知られることになったのは、時代の必然だったのかもしれません。

この記事の要点を復習しましょう。

  1. 埼玉県熊谷市で貧しい家庭に生まれ、中学時代にプロレスに憧れを抱いた
  2. 1984年に極悪同盟を結成し、クラッシュギャルズとの抗争で女子プロレスブームを牽引
  3. 「日本で一番殺したい人間」と呼ばれながらも、本当は優しく涙もろい性格だった
  4. 結婚せず独身を貫き、63歳の現在も現役プロレスラーとして活動中
  5. 父親と晩年に和解し、母親への恩返しを果たした
  6. 妹がマネージャーとして支え、家族の絆を取り戻した

2003年に現役復帰し、「生涯現役」を掲げて今もリングに上がり続ける彼女の姿は、プロレスへの純粋な愛と、女子プロレス界への恩返しの気持ちの表れです。極悪女王と呼ばれた女性の真実の物語は、家族愛と自己犠牲、そして最後には許しと和解にたどり着く、まさに人生そのものが感動的なドラマだったのです。

参考リンク

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