シベリアの極寒の地で命を落とした日本人男性の遺書が、仲間たちの記憶だけを頼りに日本の家族へ届けられた――そんな奇跡のような実話を耳にしたことがあるでしょうか。この物語に登場する山本幡男という人物について、もっと深く知りたいと感じているのではないでしょうか。
そこで今回は、山本幡男が遺した感動的な遺書の具体的内容、その遺書を命がけで届けた仲間たちの姿、そして夫を失った妻と残された子孫たちのその後について、詳しく掘り下げていきます。この記事を読めば、単なる戦争の悲劇を超えた、人間の絆と希望の物語の全貌が見えてくるはずです。
山本幡男の遺書に込められた思い
- 極限状態で綴られた約4500字の遺言
- 家族それぞれへの切実なメッセージ
- 時代を超えて響く普遍的な教え
極限状態で綴られた約4500字の遺言
山本幡男が遺書を書いたのは1954年7月、喉頭癌の末期で声も出せなくなり、死の1か月半前のことでした。驚くべきことに、衰弱しきった体で視力も薄れる中、わずか一日でノート15ページ、約4500字もの長文を書き上げたのです。
仲間たちがこの遺書の長さに驚いたのは当然のことでした。なぜなら、病床で1年3か月以上も過ごし、鉛筆を持つことさえ涙が出るほど辛い状態だったからです。
しかし山本は、思いの百分の一も書き表せないことを残念がりながらも、家族への限りない愛情を文字に刻みました。その執念とも言える姿勢に、仲間たちは深い感銘を受け、何としてでもこの遺書を日本へ届けようと決意したのです。
家族それぞれへの切実なメッセージ
遺書は母、妻、そして4人の子供たちへと、それぞれに宛てて書かれていました。老いた母には、先立つ不孝を詫びる切々とした思いが綴られ、読む者の胸を締め付けます。
妻のモジミには、子供たちを託す言葉とともに、深い信頼と感謝が表現されていました。この遺書を受け取ったモジミは、女手一つで4人の子供を育て上げる決意を新たにしたに違いありません。
そして最も心を動かされるのが、子供たちへ向けたメッセージです。山本は「成長した姿を写真ではなく、実際に一目見たかった」と無念の思いを吐露しながらも、子供たちの未来への希望を託す言葉を残しました。
時代を超えて響く普遍的な教え
遺書の中で特に有名なのが、道義と誠とまごころこそが最後に勝つという一節です。この言葉は、収容所という地獄のような環境で生き抜いた山本だからこそ語れる、重みのある真理と言えるでしょう。
さらに山本は子供たちに対し、どんなに辛い日があろうとも人類の文化創造に参加し、人類の幸福を増進するという進歩的な理想を忘れてはならぬと訴えました。これは単なる父から子への教えを超えた、すべての日本人、いや人類全体へ向けられたメッセージだと感じられます。
実際、ノンフィクション作家の辺見じゅんは、この遺書を日本人全体に宛てられた力強いメッセージと評しています。戦争という特殊な状況下で書かれたにもかかわらず、その内容は現代を生きる私たちにも深く響くのです。
奇跡の遺書リレーを支えた人々
- 6人の仲間による命がけの暗記作業
- 知られざる戸叶里子ルートの存在
- 30年以上かけて届けられた最後の遺書
6人の仲間による命がけの暗記作業
山本の告別式の後、アムール句会のメンバーを中心とした6人が、遺書を分担して暗記することを決めました。選ばれたのは山本と親しい者、信頼できる者、体力がある者、そして記憶力に優れた者たちでした。
彼らはまず遺書の一部を紙片に書き写して隠し持ち、作業中に監視の目を盗みながら暗唱して頭に叩き込みました。ソ連兵だけでなく、日本人捕虜の中にも密告者がいたため、暗唱には極度の慎重さが求められたのです。
驚くべきことに、各担当者は他の誰がどの部分を暗記しているかも知らされていませんでした。これは万が一誰かが捕まっても、遺書全体が失われないようにするための用心深い配慮だったと考えられます。
知られざる戸叶里子ルートの存在
映画などでは主に「暗記」による伝達が描かれますが、実はもう一つ重要なルートがありました。1955年、社会党訪ソ団の一員として収容所を訪れた衆議院議員・戸叶里子が、ある捕虜から山本の遺書を託されていたのです。
戸叶は帰国の翌日、山本モジミの勤務先である聾学校を訪れ、遺書を手渡しました。つまり暗記担当者たちが遺書を届けた1957年よりも2年も前に、すでにモジミは遺書の内容を知っていたことになります。
この事実は、山本が遺書を確実に届けるためにあらゆる手段を講じていたことを物語っています。そして興味深いのは、戸叶を通じて届いた遺書と、暗記によって届いた遺書の内容が一語一句違わなかったという点です。
30年以上かけて届けられた最後の遺書
1957年1月、最初の暗記担当者がモジミのもとを訪れて以降、計6人が次々と遺書を届けました。ある者は直接訪問し、ある者は郵送で、山本の字体まで似せて復元した者もいたといいます。
そして驚くべきことに、最後の遺書がモジミのもとに郵送されたのは1987年の夏でした。その日は山本の三十三回忌の盆に当たる日で、山本の死から実に33年以上が経過していたのです。
この長い年月を経ても遺書を届け続けた仲間たちの姿勢には、深い感動を覚えずにはいられません。彼らにとって山本への恩返しは一生をかけた使命だったのでしょう。
山本モジミと子孫たちのその後
- 女手一つで4人を育てた強き妻
- 父の遺志を受け継いだ子供たち
- 複雑な心情と向き合った長男の人生
女手一つで4人を育てた強き妻
山本モジミは隠岐の五箇村出身の小学校教師で、1933年に山本幡男と結婚しました。夫の死後、彼女は女手一つで4人の子供を育て上げるという困難な道を歩むことになります。
モジミは聾学校で教師として働きながら、今川焼を焼いたり魚の行商をしたりと、あらゆる手段を使って家計を支えました。家電のない時代に、この労苦がどれほど大変だったか想像に難くありません。
しかしモジミは決して悲観することなく、明るくよく歌う人だったと子供たちは回想しています。1961年には戦後初のシベリア墓参に代表者として参加し、仲間たちに遺書が無事届いたことを夫の墓前で報告する機会も得ました。
父の遺志を受け継いだ子供たち
長男の山本顕一は東京大学に進学しフランス文学を学んで、立教大学の名誉教授となりました。父が遺書で才能に恵まれていると記した通り、学問の道で大きな功績を残したのです。
次男の山本厚生は建築家として活躍し、2022年の映画公開時点で84歳でした。彼は父との最後の記憶として、ペチカで火傷した時に替え歌で慰めてくれた優しい姿を語っています。
子供たち全員が優秀に育ち、それぞれの分野で社会に貢献する人生を歩んだことは、父の遺言にあった人類の文化創造への参加を実践したと言えるでしょう。モジミの献身的な子育てと、父の精神を受け継ごうとする子供たちの努力が実を結んだ結果です。
複雑な心情と向き合った長男の人生
ただし、偉大な父を持つことは子供たちにとって必ずしも祝福だけではありませんでした。長男の顕一は著書の中で、幼い頃の父が酒を飲むと乱れる怖い存在だったと率直に綴っています。
戦時中の父は軍国主義を嫌い、常に不機嫌でガミガミ叱る人だったため、顕一は父が家にいるだけで緊張し、内心では父を憎んでいたといいます。高校時代には、もし父がシベリアから帰ってきて一緒に暮らすことになったら嫌だとさえ思っていたそうです。
しかし40代で内観という修行を通じて自己を見つめ直し、父の遺した言葉の重みを改めて理解するようになりました。末弟もまた兄の存在に囚われた人生を送るなど、山本家の子供たちは父の遺志と自分自身の人生との間で葛藤しながら生きてきたのです。
山本幡男の遺書についてのまとめ
シベリアの収容所で命を落とした山本幡男の物語は、単なる戦争の悲劇ではありません。それは極限状態でも希望を失わず、人間らしく生きようとした一人の男の記録であり、その遺志を受け継いだ人々の献身の物語なのです。
この記事の要点を復習しましょう。
- 山本の遺書は約4500字で、母・妻・子供たちへの深い愛情と道義と誠とまごころの大切さを説く普遍的メッセージが込められている
- 遺書は6人の仲間による暗記と、戸叶里子議員を通じたルートという二つの方法で日本へ届けられた
- 最後の遺書が届いたのは山本の死から33年後で、仲間たちの使命感の深さを物語っている
- 妻モジミは女手一つで4人の子供を育て上げ、子供たちはそれぞれ学問や建築の分野で活躍した
- 長男顕一は幼い頃の複雑な父子関係を経験しながらも、最終的に父の遺志を深く理解するようになった
- 山本の物語は戸叶里子による届けという事実も含めて、多層的な人間ドラマを形成している
山本幡男の遺書が今なお多くの人々の心を打つのは、そこに時代を超えた人間の尊厳と希望が刻まれているからです。あなたも機会があれば、ぜひ『収容所から来た遺書』を手に取り、この感動的な物語の全容に触れてみてはいかがでしょうか。
