赤穂義士四十七士の中でも、吉良上野介を発見し一番槍の功績を挙げた間十次郎という武士をご存じでしょうか。討ち入りで最も重要な役割を果たした人物でありながら、その生涯や子孫については意外なほど知られていません。
そこで今回は、間十次郎の波乱に満ちた生涯と、彼の血を引くとされる末裔たちの現在について詳しく紹介します。歴史の記録と家系の伝承が織りなす興味深い物語を、ぜひ最後までお読みください。
間十次郎(間光興)の生涯と赤穂事件での活躍
- 間家三代による討ち入り参加の背景
- 吉良上野介発見という最大の功績
- 切腹までの経緯と享年二十六歳の生涯
間家三代による討ち入り参加の背景
間十次郎、本名を間光興といい、延宝六年に播磨国赤穂藩士の長男として生を受けました。彼の家系は近江国栗太郡田上庄を出自とし、関ヶ原の戦い以来の浅野家譜代の家臣という由緒ある武家でした。
特筆すべきは、父の喜兵衛、弟の新六とともに親子三人で討ち入りに参加した点です。赤穂浪士四十七士の中で、このように一家から複数の義士が出たのは間家だけという稀有な例でした。
光興は天流剣術を父から、起倒流柔術を藩士から学び、さらに江戸の著名な剣客の道場でも修行を積んだ武芸者でした。元禄十四年三月の刃傷事件当時、彼はまだ部屋住みの身分でしたが、迷うことなく義盟に加わったのです。
吉良上野介発見という最大の功績
元禄十五年十二月十五日未明、間十次郎は表門隊の一員として吉良邸に突入しました。杣荘十次郎という変名で潜伏していた彼は、大高忠雄とともに邸内へ一番乗りを果たします。
討ち入りのクライマックスは、炭小屋の探索でした。光興が中にいた人物に初槍をつけ、死体を改めると吉良義央本人と判明したのです。
この功績により、泉岳寺での引き揚げ後、光興が最初に焼香する栄誉を与えられました。討ち入りの成否を決定づけた瞬間に立ち会った人物として、彼の名は赤穂義士の歴史に永遠に刻まれることとなります。
切腹までの経緯と享年二十六歳の生涯
討ち入り後、光興は三河岡崎藩の水野家に預けられました。預かり先での待遇は厳しく、外から戸障子を釘付けにされ、寒気が強い中でも寝具の増量を拒絶されるという扱いを受けたと記録されています。
元禄十六年二月四日、幕命により切腹を命じられます。水野家家臣の介錯のもと、わずか二十六歳という若さでこの世を去りました。
戒名は刃澤藏劔信士とされ、泉岳寺に葬られています。彼の短くも鮮烈な生涯は、主君への忠義を貫いた武士の生き様として、後世に語り継がれることになるのです。
間十次郎の家族構成と史料に見る記録
- 父・間光延と弟・間光風について
- 切腹前に提出された親類書の内容
- 間家の娘たちとその後の消息
父・間光延と弟・間光風について
父の間光延は寛永十二年生まれで、討ち入り時には六十八歳という高齢でした。勝手方吟味役として百石を拝領し、山鹿素行の高弟として山鹿流兵学を修めた文武両道の人物として知られています。
弟の光風は延宝八年生まれで、兄より二歳年下でした。当初は赤穂藩舟奉行の養子に出されましたが、養父との折り合いが悪く出奔し、姉を頼って江戸に出ていた経歴を持ちます。
討ち入り時、父は裏門隊、光興は表門隊、光風は裏門隊と別々の隊に配属されました。三人とも元禄十六年二月四日に切腹し、それぞれ別の大名家で最期を迎えたのです。
切腹前に提出された親類書の内容
赤穂義士たちは切腹前に親類関係を記した書類を幕府に提出しました。この親類書において、間光興の項目には注目すべき記載があります。
複数の史料によれば、光興には妻子が存在しなかったと記されています。赤穂藩分限帳などの資料でも独身とされており、側室や養子縁組を結んだ形跡も史料からは確認できません。
この記録は、後世の研究者たちによって繰り返し確認されてきました。弟の光風についても同様に、妻子に関する明確な記録は残されていないのが現状です。
間家の娘たちとその後の消息
一方、間家には二人の娘がいたことが記録されています。長女は秋元但馬守家臣の中堂又助に嫁ぎ、次女は母とともに赤穂に在住していたとされます。
元禄時代の三族連座制は既に緩んでおり、男子の遺族だけが罰せられました。妻と女子、そして僧籍にある男子は処罰を免除されたため、娘たちはその後も生き延びることができました。
これらの娘を通じて間家の血筋が後世に受け継がれた可能性は十分に考えられます。江戸時代の家系は必ずしも直系の男子だけでなく、女系や親族を含めた広い血縁で継承されていたことを忘れてはなりません。
現代に生きる末裔と声優という職業
- 羽佐間宗玄から羽佐間道夫へ続く系譜
- 声優界のレジェンドとしての活躍
- 家系の伝承が持つ意味と価値
羽佐間宗玄から羽佐間道夫へ続く系譜
現代において、間十次郎の子孫とされる人物が存在します。それが声優界の大御所、羽佐間道夫さんです。
羽佐間さんは間十次郎の子孫とされる羽佐間宗玄の末裔と伝えられています。この家系の伝承は羽佐間家に代々受け継がれてきたもので、二〇二四年十二月にはテレビ朝日の特別番組にも「間十次郎の末裔」として出演されました。
史料上の記録と家系伝承の間には興味深い点が存在します。江戸時代の家系は、傍系や女系を通じた継承も一般的であり、また史料には残らない養子縁組なども行われていた時代背景を考慮する必要があるでしょう。
声優界のレジェンドとしての活躍
羽佐間道夫さんは一九三三年生まれで、二〇二四年現在も現役で活躍する九十一歳の声優です。日本のテレビ吹き替えの黎明期から活動し、声優という職業を確立した草分けの一人として知られています。
シルヴェスター・スタローン、ディーン・マーティン、ロイ・シャイダー、アル・パチーノなど、数々のハリウッドスターの声を担当してきました。本人によれば「二百八十人くらいのハリウッドスターを演じた」とのことで、その芸域の広さは声優界随一といえます。
二〇〇八年には第二回声優アワード功労賞を、二〇二一年には第十七回東京アニメアワード功労賞を受賞しています。ナレーターとしても高い評価を受け、日本テレビの皇室関連番組などで長年その声を聴くことができました。
家系の伝承が持つ意味と価値
歴史の記録と家系の伝承は、必ずしも完全に一致するものではありません。特に江戸時代の武家社会では、お家断絶を避けるため様々な形で血筋が継承されてきた歴史があります。
間光興本人には直接の子がいなかったとしても、父の間光延や弟の間光風、あるいは姉妹を通じた血縁が存在した可能性は十分に考えられます。また、史料に残らない形での養子縁組や、親族間での家名継承が行われていたケースも少なくありません。
羽佐間道夫さんが受け継いできた家系の伝承は、それ自体が貴重な歴史の証言といえるでしょう。現代に生きる私たちは、史料に基づく実証的な歴史研究と、各家に伝わる口承の歴史の両方に敬意を払いながら、過去を理解していく姿勢が求められているのです。
間十次郎についてのまとめ
間十次郎は赤穂義士四十七士の中でも、吉良上野介を発見するという最も重要な功績を挙げた人物でした。わずか二十六歳という若さで散った彼の生涯は、主君への忠義を貫いた武士の姿として後世に語り継がれています。
この記事の要点を復習しましょう。
- 間十次郎は父・弟とともに親子三代で討ち入りに参加した稀有な例である
- 吉良邸の炭小屋で吉良上野介を発見し、一番槍の功績を挙げた
- 史料上は本人に妻子の記録がないが、姉妹を通じた血縁の継承の可能性がある
- 現代の声優・羽佐間道夫さんが間十次郎の子孫として家系を受け継いでいる
- 家系の伝承と史料記録の両方を尊重することが歴史理解には重要である
- 江戸時代の家系継承は現代とは異なる多様な形態があったことを理解する必要がある
三百年以上の時を経て、義士の血を引く末裔が声優という現代的な職業で活躍している事実は、歴史のロマンを感じさせます。間十次郎の勇気ある行動と、それを今に伝える人々の存在が、私たちに忠義と勇気の大切さを教えてくれるのではないでしょうか。
