阿部智里氏による和風ファンタジー小説『八咫烏シリーズ』を読んでいると、印象的なキャラクターたちが次々と登場しますが、中でも読者の記憶に強く残るのが、東家の二の姫・あせびではないでしょうか。その無垢で儚げな外見とは裏腹に、彼女の周囲では次々と不可解な事件が起こり、多くの人々が思いもよらぬ運命を辿ることになります。
そこで今回は、この謎めいた姫君の驚くべき正体と、物語の中でどのような道を歩んでいったのかを詳しく解説していきます。サイコパスとも評されるあせびの本質と、彼女が山内の政局に与えた影響について、じっくりと紐解いてまいりましょう。
あせびという人物の基本情報と登場の背景
- 登殿に至った経緯と家族関係
- 別邸での特殊な養育環境
- 名前に込められた皮肉な意味
登殿に至った経緯と家族関係
あせびは東家当主の二の姫として、後宮での若宮の妃選びに参加することになりました。本来は腹違いの姉である双葉が登殿する予定でしたが、双葉が病によって顔にあばたができてしまったため、急遽代役として選ばれたという表向きの理由があります。
しかし、この表向きの説明には重大な秘密が隠されていたのです。母親は長琴の名手として知られた浮雲という女性で、かつて今上陛下が若宮だった時代に登殿した経験を持つ人物でした。
茶色に近い髪色と同じ色合いの瞳を持つあせびの容姿は、東家の一族としては極めて異例なものでした。この特徴的な外見が、後に明らかになる彼女の出生の秘密を示唆する重要な手がかりとなっているのです。
別邸での特殊な養育環境
あせびは東家当主の計らいによって、幼少期から別邸に隔離されるような形で育てられました。周囲の者たちは彼女が体の弱い子だと偽り、世間から遠ざけた環境で生活させていたのです。
この閉ざされた環境での育ちが、あせびの性格形成に決定的な影響を与えることになります。后候補として必要な教養はおろか、世俗の基本的な常識すら教えられず、八咫烏が鳥の姿に転身できるという事実さえ知らされていませんでした。
侍女のうこぎたちは彼女を大切に扱ってはいましたが、それは同時に現実から遠ざけることを意味していました。この歪んだ養育方針の裏には、東家当主の複雑な計算があったと考えられますが、結果として生み出されたのは、善悪の判断基準が極めて独特な人物だったのです。
名前に込められた皮肉な意味
実は登殿時、あせびには正式な名前がありませんでした。母親の浮雲も東家当主も、彼女に名前を与えなかったという事実は、彼女の置かれた立場の複雑さを物語っています。
「あせび」という名は、登殿後に大紫の御前から与えられたものです。これは「馬酔木」という植物の名前であり、身分の低い者を見下す意図が明確に込められていました。
山内の身分制度において「馬」とは、身分の低い山烏を指す蔑称として使われる言葉です。しかし皮肉なことに、この侮蔑的な名前は後に彼女の人生において、予想もしなかった形で的中することになるのですから、運命とは不思議なものだと感じさせられます。
あせびの衝撃的な正体と隠された真実
- 実の父親についての驚愕の事実
- 母・浮雲との関係性
- サイコパスと呼ばれる理由
実の父親についての驚愕の事実
あせびの最大の秘密、それは東家当主が実の父親ではないという事実です。彼女の本当の父親は、伶という名の下男、つまり楽師だったのです。
あせびの茶色の髪と瞳は、この実父から受け継いだものでした。八咫烏の中では極めて珍しいこの特徴が、出自の証明となってしまったわけです。
母親の浮雲は今上陛下の寵愛を受けていましたが、あえて下男との間に子をもうけました。この行動の真意については諸説ありますが、今上陛下との関係を避けるための策だったという見方が有力で、高貴な血筋に生まれた女性の苦悩と、したたかさの両面が垣間見える出来事だったと言えるでしょう。
母・浮雲との関係性
母親の浮雲は長琴の名手として知られ、高い教養を持つ女性でした。今上陛下が若宮だった時代に登殿し、その寵愛を一身に受けた美女だったとされています。
しかし浮雲とあせびの母娘関係は、必ずしも良好なものではなかったようです。あせびに名前すら与えなかったという事実は、母親としての愛情の欠如、あるいは何らかの事情で愛情を示せなかった複雑な状況を示唆しています。
浮雲は花見の際に茶色の髪をした下男に刺殺されるという悲劇的な最期を遂げました。この事件の背景には複雑な人間関係が絡んでおり、あせびの人生に大きな影を落とす出来事となったのですが、当のあせび自身が母の死をどう受け止めたのかは謎のままです。
サイコパスと呼ばれる理由
ネット上で話題になるほど、あせびの性格は多くの読者に強烈な印象を残しています。しかし彼女の恐ろしさは、悪意に満ちた残虐性ではなく、悪意が全くないままに人を破滅させてしまう点にあるのです。
あせびは常に無垢で儚げな態度を崩さず、純真そのものに見える表情を保ち続けます。けれども実際には、自分に都合の良い方向にのみ状況を解釈する、極めて特殊な思考様式を持っていました。
彼女に好意を抱いた者たちは、本人の意図しないところで利用され、結果として破滅への道を歩むことになります。本人に悪意がないからこそ、周囲の人々は彼女を守ろうとして自ら泥沼にはまっていくという構図が、読者に深い戦慄を与えるのではないでしょうか。
あせびが引き起こした数々の事件
- 姉・双葉の登殿阻止
- 桜花宮での一連の騒動
- 今上陛下との密通
姉・双葉の登殿阻止
あせびの策略の最初の犠牲者は、皮肉にも腹違いの姉である双葉でした。双葉は本来、東家を代表して登殿するために育てられてきた姫だったのです。
あせびは東家の下男を呼び出し、自分と逢引きができると思わせるような振る舞いをしました。その結果、下男は双葉を襲ってしまい、双葉の顔にはあばたができて登殿の資格を失うことになったのです。
この一連の出来事によって、代役としてあせびが登殿することになりました。偶然を装った計画的な犯行だったのか、それとも本当に何も考えていなかったのか、その真相は本人にしか分からないところに、あせびというキャラクターの不気味さが凝縮されていると感じます。
桜花宮での一連の騒動
登殿後の桜花宮では、あせびを中心に様々な不穏な出来事が発生しました。若宮からの文が届かない、男子禁制のはずの桜花宮に侵入者が現れる、侍女が転落死するなど、次々と事件が起こったのです。
特に悲劇的だったのは、早桃という侍女の死でした。彼女はあせびの本性に気づき始め、若宮の妹である藤波に警告しようとしましたが、無知ゆえにあせびを庇おうとした藤波によって高欄から突き落とされ、命を落としてしまったのです。
あせびは若宮からの手紙を藤波を利用して独占し、他の后候補たちを精神的に追い詰めていきました。それでいて本人は「私は何も悪いことをしていない」「皆が勝手にやったこと」と心から信じている様子で、この無自覚な恐ろしさこそが、多くの読者の心に深い印象を刻んだのでしょう。
今上陛下との密通
あせびが犯した最大の禁忌、それは若宮の父である今上陛下との密通でした。登殿中の姫が、選ばれるべき相手の父親と通じるという行為は、山内の秩序を根底から揺るがす重大な背徳です。
きっかけは藤波に連れられて立ち入り禁止の宝物庫に入ったときのことでした。そこにあった長琴という大型の琴を、得意だったあせびが思わず奏でたところ、それを聞いた今上陛下が母親の浮雲の面影を重ねて近づいてきたのです。
今上陛下は浮雲に強い執着を持っていましたから、そっくりの容姿を持つあせびに惹かれたのは必然だったのかもしれません。しかしあせび自身がこの関係をどう捉えていたのか、純粋な恋愛感情だったのか、それとも別の目的があったのか、その内心は最後まで謎に包まれており、読者にさまざまな解釈の余地を残しています。
あせびのその後と山内政局への影響
- 凪彦の誕生と大紫の御前への就任
- 政治には関与しない姿勢
- 第二部での存在感
凪彦の誕生と大紫の御前への就任
若宮・奈月彦との結婚が実現しなかった後、あせびには驚くべき運命が待っていました。今上陛下との間にできた息子・凪彦が、後継者争いの重要な駒として浮上してきたのです。
真の金烏である奈月彦が悲劇的な最期を遂げた後、本来は奈月彦の兄である長束が金烏に即位するはずでした。しかし今上陛下が金烏代の地位を譲ったのは長束ではなく、それまで誰も存在を知らなかった幼い凪彦だったのです。
こうしてあせびは、夕蝉亡き後の大紫の御前という地位を手に入れることになりました。若宮の妃候補として登殿しながら、最終的にはその父親の子を産み、後宮で最高位の女性となったわけで、この予測不可能な展開こそが八咫烏シリーズの魅力の一つだと言えるでしょう。
政治には関与しない姿勢
大紫の御前となったあせびですが、前任者の夕蝉とは対照的に、政治には一切干渉しない姿勢を貫いています。権力の座に就きながらも、その力を積極的に行使しようとはしないのです。
凪彦が金烏代となった後も、あせびは表立った動きを見せていません。かつての登殿の際と同様、何を考えているのか、あるいは何も考えていないのか、周囲の者たちには彼女の真意が全く読み取れない状態が続いています。
興味深いのは、容姿が奇跡的に全く変わっていないという描写です。子を産んでもなお輝くように美しいあせびの姿は、まるで時間が止まったかのようで、現実感のない彼女の存在そのものを象徴しているかのように感じられます。
第二部での存在感
八咫烏シリーズ第二部『楽園の烏』以降も、あせびの影響力は消えることがありません。直接的な登場場面は少ないものの、彼女の存在は常に山内の政局に影を落とし続けているのです。
息子の凪彦は幸いにも双葉に育てられたおかげで、母親とは違って普通の善良な子供に育っています。しかしあせびがいつ、どのような形で凪彦に影響を与え始めるのか、読者は常に不安を抱えながら物語の展開を見守ることになります。
第二部においても、あせびは相変わらず「善意で」周囲を動かし続けているようです。悪意なき行動が新たな悲劇を生み出す可能性は常にあり、彼女がこれからどのような波紋を広げていくのか、シリーズの重要な見どころの一つとして、ファンの注目を集め続けているのです。
『烏に単は似合わない』のあせびについてのまとめ
今回は八咫烏シリーズの中でも特に印象的なキャラクターである、あせびの正体とその後について詳しく見てきました。彼女の複雑な出生の秘密、サイコパスと呼ばれる独特の性格、そして予測不可能な運命の変遷は、読者に深い衝撃を与え続けています。
この記事の要点を復習しましょう。
- あせびの実父は東家当主ではなく、楽師の下男である
- 別邸での特殊な養育環境が、彼女の独特な性格形成に影響を与えた
- 悪意なく人を破滅させる「天然サイコパス」として描かれている
- 姉の登殿阻止から桜花宮での騒動まで、数々の事件の中心にいた
- 今上陛下との間に凪彦をもうけ、大紫の御前となった
- 第二部でも存在感を示し続け、物語の重要な要素となっている
あせびというキャラクターは、善悪の境界線を問い直す存在として、八咫烏シリーズに独特の深みを与えています。彼女のような人物がいるからこそ、この物語は単純な勧善懲悪では終わらない、人間(八咫烏)の複雑さを描く奥深い作品となっているのではないでしょうか。
